アシュラムのクリスマス
20091226
バガヴァッドギーター第2章 第39~45節/サーンキャヨーガ 9
20091225

第39節
これまで君に述べてきたのは、サーンキャの論理だ。
さあ、今から、ヨーガの智恵に耳を傾けるが良い。
この知恵が備われば、
おお、プリターの子よ、君は行為の束縛から離れるだろう。
<ババ様の御言葉です>
第39節は変わり目の詩節です。
というのも、これまでは君にサーンキャ、目に見えるものの本質の探求について、
述べてきた、と言った後クリシュナは、
今度はヨーガブッディ、ヨーガの智恵を教えるので注意して聞くように、
とアルジュナに言っているからです。
第40節
ここでは、努力が無駄になる事はなく、有害な結果が生じる事もない。
この行動方針は、わずかに従うだけでも、人を大いなる恐怖から解放する。
<ババ様の御言葉です>
もちろん、完全に全託する事は困難です。
しかし、もし人がそれに向かってわずかな努力さえすれば、
神自らが、それを最後まで追求するための勇気を与えてくれます。
神はその人と共に歩き、友として助け、案内人として導き、
悪と誘惑から守るでしょう。
神は、その人の杖となり、支えとなるでしょう。
クリシュナは、このような行動の方針を、たとえわずかでも守った人は、
大いなる恐怖から守られるであろう、と言いました。
ダルマを守る事は、それ自体が喜びの原因になります。
それは最も障害の少ない道であり、それこそが神の教えなのです。
第41節
おお、クル族の子孫、アルジュナよ
一心に励む勤勉さを養うのだ。
勤勉でないものの思考は多岐に渡り、際限がない。
<ババ様の御言葉です>
ギータの中に、クリシュナがアルジュナに、
クルナンダナと呼びかけている箇所があります。
学者たちは普通、この名前は、クル族の子孫という意味であるとしていますが、
この呼びかけには、人類を教えに導く、遥かに深い教訓が含まれています。
クルとは、サンスクリット語で、するという意味であり、
ナンダナとは、喜ぶという意味です。
ですからそれは、アルジュナの中に起きた、無活動から活動への変容を、
クリシュナが評価している事を意味しています。
アルジュナは、何か成すべき仕事がある事を喜ぶ人物です。
彼は、手元に何も仕事がないと悲しみ、落胆します。
ほとんどの皆さんにとって、日曜日は嬉しい休日、ホリディです。
しかし、アルジュナにとっては、神の仕事に熱中出来る日こそが、
本当に神聖な日、ホーリーディなのです。
後半は、こちらを読んでください。
音源はこちらです。
バガヴァッドギーター第2章 第29~38節/サーンキャヨーガ 8
20091217

第29節
ある者は、彼アートマを、驚くべき者として、
ほかの者は、彼を驚くべき者として語る。
ほかの者は、彼を驚くべき者として聞く。し
かし、たとえ彼について聞いたとしても、誰も彼のことを真に知ることはないのだ。
第30節
おお、アルジュナよ。
あらゆる者の肉体に宿るこの内在者、デーヒは、
永遠に殺されることはない。
だから君は、全ての生き物について、嘆くべきではない。
第31節
また、自分の本分、スワダルマを考えて、
君は怖じけるべきではない。
武人、クシャトリヤにとって、まさに正義、
ダルマの戦いより他に、シュレヤス、すなわち永遠の栄光はないのだ。
<ババ様の御言葉です>
武人、クシャトリヤの第一の義務は、
正義ダルマの側に留まって、不正、アダルマを破壊することだ。
君自身の幸運を考えてみるが良い。
この戦場には、ビーシュマや他の者たちのような、立派な敵がいる。
このビーシュマはかつて、自らの師で、
あらゆる技術を教えてくれた僧侶、ブラーミン、
ビシュヌ神の化身の内の一人、偉大なるパラシュラーマと戦ったのだ。
それは、武人としての義務の遂行を第一としてのことであった。
そして今君は、臆病者のように、
そうした兵たち(つわもの)に対して武器を取ることを怖れているのだ。
あらゆる苦境をものともせず、ダルマの大義を掲げたとき、
武人は義務を果たしたと感じる。それこそが成長の道である。
第32節
天国へと開かれた扉である、このような戦いに、
求めずして巡り会う武人は、おお、プリターの息子アルジュナよ、幸運である。
<ババ様の御言葉です>
クシャタムは、ブカン、悲しみを意味し、
クシャトリヤとは、人々を悲しみから救う者のことである。
正義に変わって不正の勢力と戦うという、このような機会は、
人間には滅多にやってこない。
このダルマユッタに参加出来るのは、
クシャトリヤとして祝福されたことである。
君が今手がけようとしている世界へのこの奉仕によって、
どれほどの徳を積むことが出来るか、想像してみるがよい。
平安と繁栄を世界に打ち立てるために行われる戦いは、
ダルマユッタと呼ばれる。
今回の戦いは、まさにそのようなものである。
正義が必ず勝利を収めるのだ。
カーラバ一族はいかなる罪や不正、
悪徳をも控えようとはしなかった。
彼らは年長者を侮辱し、有徳の人を見捨て、
純血を守る人を汚し、善良な人の自尊心を傷つけた。
彼らの悪行は数えきれない。
今、天罰の瞬間が訪れたのだ。
彼らは自らが犯した罪の責任を取ろうとしているのだ。
この期に及んで、もし卑怯者のように振る舞うのなら、
君は両親や兄弟、そしてまさにクシャトリヤ階級の全ての人に、
不名誉をもたらすことになる。
第33節
今もし君が、この正義の戦いを行わず、
それによって自らの義務、スワダルマと名誉とを放棄するなら、
罪を負うことになるだろう。
<ババ様の御言葉です>
戦いに従事することは、罪だと君は考えている。
しかし、それは大きな過ちだ。そうではなく、
邪悪な者を破壊する機会を避け、有徳の人々の苦痛を引き延ばすことこそ、罪である。
今、ダルマを放棄すれば、君は地獄に堕ちる危険を侵すことになる。
しっかりとダルマに掴まっていれば、罪に汚されることはない。
心を定めるのだ。
この世のあらゆる二元対立の、
どちらの側にも、心を奪われてはならない。
クリシュナは、この章の第31節から始まる、八つの詩節で、
このスワダルマニシュタ、着実に自らのダルマを守ることについて、語っています。
第34節
また、人々はいつまでも、君の不名誉を語るだろう。
そして、尊敬されている者にとって、不名誉は死よりも更に悪いものだ。
第35節
偉大な戦士たちは、君が怖れを成して、戦場から退いたと思うだろう。
そして君は、君を大いに尊敬していた人たちから、軽蔑されるようになるだろう。
第36節
また、君の敵たちは、君の能力を蔑みながら、
数多くの、口にすべきでない言葉を語るだろう。
それに勝る苦痛がいったいあるだろうか。
第37節
倒されれば君は天国に行き、勝利を収めればこの世を楽しむだろう。
だからクンティの子よ、戦う決意をして立ち上がれ。
<ババ様の御言葉です>
人は、運、不運の最中に、心を動かさずに活動に携わるべきです。
これが第37節でクリシュナが与えた助言です。
第38節
苦楽、特質、勝敗を平等視して、戦闘に従事することだ。
そうすれば、君は罪被うことはないだろう。
音源はこちらから
バガヴァッドギーター第2章 第20~28節/サーンキャヨーガ 7
20091208

第20節
彼、すなわちアートマは、生まれることはなく、いかなる時にも死ぬこともない。
また、一旦存在したのちに、存在しなくなるということもない。
不生、永遠、不変にして太古より存在する彼、アートマは、
肉体が殺されても、殺されることはない。
<ババ様の御言葉です>
変調と変形には、発生、存在、成長、変化、減退、崩壊と言う6つの形がある。
これが6種の変化、シャットビカーラである。
発生、すなわち誕生、ジャンマは、存在していなかったものが、
のちに存在するようになる変化であり、
存在しているものが、存在しない状態になる変化が、
死、マラナムである。
誕生は、期間を持った生物に起こる変化であって、
それ以外の無生物には起こらない。
しかしアートマには期間がなく、それは生物ではない。
アートマは、生まれることがないのだから、どうしてそれが死ぬのだろうか。
アートマは、誰かを殺すだろうか。
それは不生不滅のものなのだ。
第21節
彼、アートマが、永遠不滅にして、不生不変のものであると知る人、
その人が、おお、プリターの子アルジュナよ、
どのようにして誰に殺させ、誰を殺すだろうか。
第22節
人が着古した衣服を捨てて、別の新しい衣服を身につけるように、
肉体の内在者デーヒは、古い肉体を捨てて、新しい別の肉体に入るのだ。
<ババ様の御言葉です>
あたかも人が、古い服を捨てて、新しい服を身につけるように、
デーヒ、肉体の内在者は、肉体を脱ぎ捨てて、新しい肉体を身にまとう。
肉体と個人の関係は、衣服と肉体の関係と同じである。
第23節
武器が彼、アートマを切ることはなく、
火も彼を焼くことはない。
水もまた彼を濡らすことはなく、風も乾かすことはない。
<ババ様の御言葉です>
アートマの本当の特質を理解すれば、悲しみに負けることはないだろう。
どんな武器を使っても、肉体を傷つけることしか出来ない。
武器は、変更されることのないアートマを、傷つけることは出来ないのだ。
これを真理であると知り、今の落胆を手放すがいい。
第24節
彼、アートマは切られず、彼は焼かれない。
また、濡らされず、乾かされない。
彼は永遠であまねく行き渡っており、揺るぎなく、決して変わることはない。
第25節
彼、アートマは非顕現、知覚不能であり、
不可思議であり、変化することはないと言われる。
だから、かれをこのように知って、君は嘆くべきではない。
第26節
また、もし君が、彼、アートマを、絶えず生まれ、
あるいは絶えず死んで行くものだと考えるとしても、
それでも君は、
「おお、逞しい腕を持つアルジュナよ。
彼について、嘆くべきではない」
第27節
生まれたものには確実に死が訪れ、また、死んだものには、確実に誕生が訪れるのだ。
だから、避けられない事柄について、
君は嘆くべきではない。
第28節
万物は始めは非顕現、知覚不能である。
その中間でのみ、顕現するのだ。
おお、バラタ王朝の子孫、アルジュナよ。
終わりもやはり、非顕現である。
それなら何を嘆くことがあろうか。
<ババ様の御言葉です>
もちろん、迷いに満ちた段階では、
世界は実在しているかのように見え、
ブラフマンは、無意味な捏造物であるかのように見えます。
理性を伴った、慈悲の段階においては、
世界は真の意味では、非真実であることが分かります。
迷妄という妖精は、その魅力と、偽りと、罪意識の毒矢で貴方を圧倒します。
彼女の企みから、すぐに逃れることの出来るのは、
普遍的なアートマのビジョンを持っている人だけです。
そのような人は、様々な名前や形は、ほんの少し前に生まれたものであり、
あとわずかで消えてしまうということを、十分に知っています。
ギータの中でも、これらのものは、
「おお、バーラタよ、途中で現れるだけなのだ」と言われています。
世界には、進化と退化がつきものです。
これを理解するためには、この世の終わりまで待つ必要はありません。
ものの味方の角度を修正するだけで良いのです。
それが、真の知識への入口です。
それが、真の意味でのプラーナ、生気のコントロールであり、
この世が非実在、すなわちミディアン、真と非真が混在したものであるということの認識です。
音源です。
バガヴァッドギーター第2章 第15~19節/サーンキャヨーガ 6
20091203

第15節
おお、人間の中で最もすぐれたものよ。
これら感覚の対象との接触に悩まされることなく、
苦楽を等しく受けとめる賢者こそ、不滅を得るにふさわしい。
<ババ様の御言葉です>
普通人は、幸せと喜びだけを求めるものだ。
どのように強制されても、不幸や悲しみを望んだりはしない。
人間は幸せと喜びを、自分の幸福を願う、最も親密なものであるかのように扱い、
不幸や悲しみを、直接の敵とみなす。
これは大きな過ちだ。
幸せな時こそ、悲しみが生じる危険は大きく、
幸せを失うことへの恐怖がつきまとう。
不幸は探究心、識別心、自制を促し、
今後起きる可能性のある、一層悪い事態を怖れる心を生じさせる。
人は不幸によって、怠惰と思い上がりから目を覚ます。
幸せは、人として果たすべき義務を忘れさせ、
人を利己心へと引きずり込み、利己心による罪を犯すようにしむける。
悲しみは人間を警戒させ、注意深くする。
従って不幸こそが、真の友なのだ。
幸せは、積み重ねた功徳を使い果たせ、より卑しい情念を歓喜する。
だから本当は、幸せは敵なのだ。
まことに、悲しみは人に目を開かせる。
それは、思索と自己改善の努力を促す。
それはまた、新しくて、価値のある体験を与えてくれる。
幸せは、人を鍛え、強くする経験にベールをかぶせる。
従って困難や苦痛は、少なくとも敵としてではなく、
友として扱われるべきなのだ。
一番いいのは、幸せと不幸の両方を、神からの贈り物とみなすことだ。
それこそが、自分自身の解脱に繋がる、最も容易な道である。
第16節
アサット、すなわち非実在肉体に、永続する存在はなく、
サット、すなわち実在、アートマに非存在はない。
真理を見通す人は、この両者に関する結論を悟る。
第17節
この一切に偏満しているそれ(タット)は、不滅であると知るがいい。
いかなる者も、この不壊(ふえ)なるものを破壊することは出来ない。
<ババ様の御言葉です>
デーヒ、内在者は万物に浸透しています。
それは、命ある全ての者に、内在者として住んでいます。
デーハ、身体は移ろい行くものであり、滅びる定めにあります。
肉体のうちに存在するデーヒ、内在者は、変わることがなく永遠です。
デーヒという言葉は、単にそれがデーハ、
肉体のうちに住んでいるという理由から、与えられた名称ではありません。
宇宙全体がデーヒ、内在者のデーハ、身体なのです。
デーヒと呼ばれるアートマは、宇宙というデーハ、身体の中に、永遠に住み続けています。
このような理由から、実在にして変わることがなく、
永遠であるアートマの原理は、デーヒと呼ばれる、と言われるのです。
第18節
永遠不壊にして、計ることの出来ないものの持つ、これらの肉体は、
滅びるものであると言われる。
だから戦うのだ。バラタ王朝の子孫、アルジュナよ。
<ババ様はクリシュナ神の言葉を、次のようにおっしゃっています>
もう充分だ。
立ち上がって、戦う用意をするのだ。
なぜ、こうした無益な利己心の重荷で、地に落ちるのか。
全ての物事の原因は神であって、君ではない。
全てを動かしている至高の力が。
このことを知って、君の意志を、それに従わせるがいい。
第19節
彼、すなわちアートマを、殺害者と理解するもの、
また、彼を殺害されたと考えるもの、その両者は知らないのだ。
かれ、アートマは、殺すことも、殺されることもない。
<ババ様の御言葉です>
このことは、クリシュナがアルジュナに、アートマグニャーナ(真我の知識)という、
最も重要な知識を教えた理由を、解き明かしてくれます。
アートマは殺したり、死んだりするものではありません。
アートマが殺したり、死んだりすると信じている人は、
アートマの特性を知らないのです。
アルジュナのアートマは、殺すことはなく、
ビーシュマやドローナのアートマは死ぬことはありません。
また、クリシュナのアートマが促すこともないのです。
これらは、原因結果の二元性における、異なった局面に過ぎません。
アートマは、何らかのカルマの原因や結果にはなりえません。
それは、ニルビカーラ、すなわち、変化することが出来ないものなのです。
音源とともにお聞きください。